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東京地方裁判所 平成9年(ワ)28102号 判決

原告 A

右法定代理人後見人 B

原告 B

原告 C

右三名訴訟代理人弁護士 森谷和馬

被告 東京都

右代表者知事 石原慎太郎

右指定代理人 西道隆

同 秋山哲也

同 林伸一郎

主文

一  被告は、原告Aに対し、金一億四五四五万六七七八円、原告Bに対し、金一二〇万円、原告Cに対し、金四〇万円及び右各金員に対する平成七年二月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を原告らの負担として、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告Aに対し、金一億五七三〇万五一八八円、原告B及び同Cに対し、各金二三〇万円並びに右各金員に対する平成七年二月一二日から支払済みまで年五分の割合による各金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告A(以下「原告A」という。)が被告の設置する東京都立墨東病院(以下「墨東病院」という。)に入院し、医師から鎮静剤の投与を受けたところ、呼吸停止になるなど急変し(以下「本件発症」という。)、蘇生後脳症と診断され、いわゆる植物状態になった医療事故について、原告らが、被告に対し民法七一五条の使用者責任に基づき介護費用、逸失利益、慰謝料等の損害賠償を求めた事案である。

一  争いのない事実等

1  原告Aは、昭和三九年九月四日生まれの男性であり、本件発症後の平成九年一一月五日、東京家庭裁判所において禁治産宣告を受け、同審判は、同月二一日、確定した。

原告B(以下「原告B」という。)は、原告Aの母であり、その法定代理人後見人である。原告C(以下「原告C」という。)は、原告Aの兄である(弁論の全趣旨)。

2  被告は、東京都墨田区江東橋四丁目二三番一五号において、墨東病院を設置し、その管理運営に当たっている。佐伯俊成(以下「佐伯医師」という。)は、平成七年二月当時、被告によって雇用され、同病院の神経科で勤務していた医師であり、同月一一日夜間の同病院神経科救急外来の当直であった。

3  原告Aは、同月一二日午前三時二〇分ころ、同病院神経科救急外来に来院し、佐伯医師の診察を受け、鎮静目的でサイレース(フルニトラゼパム製剤)、ヒルナミン(塩酸レボメプロマジン製剤)を投与され、午前五時ころには眠り始めたが、午前六時ころ、呼吸や拍動が感じられない状態にあるなどの異変が生じているのが発見された。その後の処置の結果、同原告は蘇生したものの、いわゆる植物状態になった。

二  争点

1  本件発症の原因(診療行為と本件発症との因果関係)

(原告らの主張)

原告Aは、五本のサイレースと二本のヒルナミンを投与された後、呼吸停止、心停止に陥ったものである。サイレースの副作用には無呼吸、呼吸抑制、舌根沈下が見られ、ヒルナミンの副作用には血圧降下、頻脈、不整脈、心疾患悪化が見られ、両者の併用により呼吸抑制出現の頻度が高まることからすると、本件発症の原因は、サイレース及びヒルナミンの投与である。

(被告の主張)

サイレースは極めて代謝の早い薬物であり、その血中濃度は速やかに消失する。本件では、薬剤の最終回の投与から異変の発生まで一時間一五分程度経過しているところ、その時点ではその薬理効果はピーク時より大きく落ちており、本件発症はサイレース投与による副作用とはいえない。また、フルニトラゼパム(サイレース)とレボメプロマジン(ヒルナミン)の併用は広く行われており、両剤の併用もその原因ではない。結局、原告Aの急変は、突然発症した呼吸あるいは循環器系の機能障害であり、本件発症の原因は不明といわざるを得ない。

2  医師の過失(経過観察義務違反)の有無

(原告らの主張)

佐伯医師は、急速鎮静の目的によるサイレースの投与について安全性に関する実証的なデータもないのに、安全確認の手続を全くとらないまま、自らの判断で、能書に定められた投与量の約六倍ものサイレースを投与し、しかも右サイレースの副作用を増強させる可能性のあるヒルナミンを併用したのであるから、同医師としてはサイレース投与後に無呼吸、呼吸抑制等の症状の発現を予測し、モニタリング等による経過観察を行うべき義務があったのにかかわらず、これを怠ったものであり、この点に過失がある。

(被告の主張)

佐伯医師は、サイレース等の投与後の経過において、原告Aに身体状態の急変を予測させるような不安定な兆候が認められない状況においては、副作用の出現により突然重篤な状態に転ずる予見可能性がなく、巡回監視の頻度を高めるべき、ないしモニターによる監視を行うべきであるとの判断はとり得なかったものである。また、墨東病院においては、そのような監視を行う人的、器械設備は当時存在しなかったのであり、当時の医療水準に照らしても、佐伯医師に経過観察義務違反はないというべきである。

3  原告らの損害

(原告らの主張)

佐伯医師の右過失により、原告Aは本件発症に至り、現在も墨東病院に入院中である。

(一) 原告Aの損害

(1)  介護費用 二三〇四万二五二三円

原告Bらは原告Aの介護を行い、原告Bら家族による介護費用は少なくとも一日当たり六〇〇〇円が相当であるから、本件発症から平成九年一一月三〇日までの一〇二二日分の近親者の介護費用は六一三万二〇〇〇円である。そして、原告Aの余命は四五年で、その間常に介護が必要であるが、その全てを通じて原告Bら家族が介護を担うことは実際上困難であるから、家族による将来の介護費用として一〇年間分を請求すると、一六九一万〇五二三円(六〇〇〇円×三六五日×七・七二一七、ライプニッツ方式)である。右介護費用の合計額は二三〇四万二五二三円である。

(2)  入院雑費 四九九万二五四七円

原告Aの入院雑費は一日当たり一三〇〇円が相当であるから、右(1) の一〇二二日分の入院雑費は一三二万八六〇〇円であり、将来の入院雑費として一〇年間分を請求すると、三六六万三九四七円(一三〇〇円×三六五日×七・七二一七、ライプニッツ方式)であり、その合計額は四九九万二五四七円である。

(3)  通院交通費 一五三万六一六八円

原告Bらが墨東病院へ通院するための交通費は一日当たり四〇〇円(バス)を要するから、右(1) の一〇二二日分の通院交通費は四〇万八八〇〇円であり、将来の通院交通費として一〇年間分を請求すると、一一二万七三六八円(四〇〇円×三六五日×七・七二一七、ライプニッツ方式)であり、その合計額は一五三万六一六八円である。

(4)  逸失利益 八一二一万五八八二円

原告Aの労働能力は、本件発症により一〇〇パーセント失われ、平成七年の賃金センサス中の産業系全労働者の年収五一三万九四〇〇円を基礎として、六七歳までの逸失利益をライプニッツ方式で計算すると、逸失利益は八一二一万五八八二円(五一三万九四〇〇円×一五・八〇二六)である。

(5)  後遺症慰謝料 二六〇〇万円

原告Aの後遺症は重大であるから、慰謝料としては二六〇〇万円が相当である。

(二) 原告B及び同明人の損害 各二〇〇万円

原告Aが本件発症により、重大な後遺症を有することになったから、原告Bらの固有の慰謝料としては、各二〇〇万円が相当である。

(三) 弁護士費用

原告らは本件訴訟を原告ら代理人に委任し、その報酬として、請求金額の一五パーセントを支払う旨約し、これは被告の不法行為と相当因果関係に立つ損害として、被告が賠償すべきであるところ、その金額は、原告Aにつき二〇五一万八〇六八円、原告B及び同明人につき各三〇万円である。

第三争点に対する判断

一  原告Aに対する診療状況、同人の現状等について、前記争いのない事実等、証拠(甲一、二、六、乙一ないし四、八、九、一一、証人佐伯)及び弁論の全趣旨によると、以下の事実が認められる。

1  墨東病院

墨東病院は、精神科診療を扱う神経科をはじめとして、診療科目二〇科を設置する総合病院である。また、診療科目の一つとして救命救急センターを設置し、生命危機を伴う重篤・重症救急患者に対する救急医療に当たっている。さらに、墨東病院は、被告が救急事業の一環として夜間及び休日に精神科の救急医療について、都内全域を三ブロックに地域指定して行っている診療事業において、区部東北(第一ブロック)を担当している。

2  従前の診療状況

原告Aは、大学卒業後、口腔保健協会に就職したが、医学部受験を志し退職したものの、右受験に失敗し、その後は安定した就職先も見つからず、気持ちが落ち込み、不眠や食欲不振等の不調に悩み、平成六年九月一四日から、クボタクリニック(精神科)に通院し、うつ病と診断され、抗精神剤を服用していた。しかし、原告Aは、その後も就職活動がうまく進まず、同年一一月ころから希死念慮が強くなり、同年一二月一九日、クボタクリニックの紹介により墨東病院神経科を受診し、躁うつ病・抑うつ型との診断を受け、同日入院したが、翌日には自ら退院を申し出て、退院した。この時点で同原告の診断名に回避性人格障害が追加された。原告Aは、墨東病院で通院治療を受けることになり、同月二六日から平成七年二月一〇日までの間に合計四日間通院した。ちなみに原告Aの体重は五四・六キログラムであった。

3  本件の診療状況

(一) 原告Aは、平成七年二月一一日、自宅において、原告Bに暴言を浴びせるなど怒声を発し、物を投げつけるなどの不穏興奮状態が続いたため、原告Bの一一〇番通報により向島警察署の警察官が訪れ、保護及び事情聴取が行われ、翌一二日午前三時二〇分ころ、警察官数名、原告B、原告Cに伴われて、墨東病院の神経科救急外来に来院した。

(二) 佐伯医師は、同日午前三時三〇分ころから、警察官ら及び甲川初美准看護士(以下「甲川准看護士」という。)らの同席のもと、原告Aの診療を開始した。佐伯医師は、原告Bらから来院に至る状況を聞き、原告Aらに対し入院を希望するかどうかを質問したところ、同原告は、暴力を振るうかどうかは帰ってみなければわからないと述べ、原告Bらは入院を希望する旨述べた。これを受けて、佐伯医師は、原告Aの病識を確認するため、同原告に対し、家族らに迷惑をかけて悪いと思わないのかと問うたところ、同原告は、怒声をあげ、飛びかからんばかりに腰を浮かせ、にらみつけるなどした。

かかる状況から、佐伯医師は、原告Aについて情緒不安定が特徴的な境界性人格障害(精神障害者)であり、入院の必要性があると判断し、医療保護入院として入院させることとした。そこで、佐伯医師は、原告Aに入院の必要性を告げ、検査及び処置のため、警察官及び甲川准看護士の助力を受けて救急診療室内のストレッチャーに仰臥させた上、午前四時ころ、血圧(一一〇ないし七〇mmHg)、脈拍(一分間当たり一〇二回)を測定し、左肘窩から採血した後、鎮静及び入眠を目的としてサイレース二アンプル(一アンプル中有効成分フルニトラゼパムとして二ミリグラムを有する。)を生理食塩水で二〇ミリリットルに希釈したものを緩徐に静脈注射した。

しかし、原告Aは全く入眠せず起きあがろうとしたので、佐伯医師はさらにサイレース一アンプルを生理食塩水で一〇ミリリットルに希釈したものを緩徐に静脈注射した。

(三) 佐伯医師は、原告Aが傾眠状態になったので、同日午前四時一〇分ころ、保護室に入室させ、ベッド上で胴抑制、四肢抑制、ベストによる上半身抑制を行い、点滴を開始するなどした。同原告は、この間、傾眠状態のままで静穏であった。

原告Aは、午前四時三〇分ころ、覚せいし、再び、人に迷惑をかけて何が悪いなどと大声で叫びながら、ベッド上で体動の激しい不穏興奮状態になったため、佐伯医師は、鎮静効果のあるヒルナミン二アンプル(一アンプル中有効成分塩酸レボメプロマジンとして二五ミリグラムを有する。)及びヒルナミン投与による副作用を防止するためのアキネトン一アンプルを筋肉注射した。

しかし、原告Aは、なおも興奮状態にあり、ベストの右肩紐を切り、上半身を起こしてさらに体動激しく怒声をあげていたため、佐伯医師は、午前四時四五分ころ、サイレース二アンプルを生理食塩水で二〇ミリリットルに希釈したものを緩徐に静脈注射した。

原告Aは、その後も点滴ラインが外れそうなくらい四肢を動かし、怒声をあげ続けたため、佐伯医師らにより上肢等を素手で抑制されていたが、午前五時ころ、入眠し始めた。佐伯医師は、呼吸、脈拍とも整であることを確認した上、保護室を退室した。

(四) 甲川准看護士は、同日午前五時二〇分ころ、再び保護室に入室し、原告Aのバイタルサインを測定したところ、血圧は一一六ないし六〇mmHg、脈拍は一分間当たり一二六回、呼吸は整であった。

(五) 佐伯医師は、同日午前六時ころ、原告Aが覚せいし始めていないかどうか確認するため、保護室に入室したところ、左とう骨動脈の拍動が触知できず、呼吸も感じられず、呼びかけにも答えない状態になっており、両眼とも対光反射は確認できなかったので、直ちに墨東病院内の救命救急センターに連絡し、心マッサージ、人工呼吸等の蘇生処置を施した。その結果、同原告は、脈拍が触知可能になり、自発呼吸が認められ、午前六時二五分に血圧は一四〇ないし五〇mmHg、脈拍は一分間当たり一二〇回となった。

原告Aは、右救命救急センターで救命治療を受け、蘇生後脳症(低酸素脳症)と診断された。

4  原告Aの現状

原告Aは、本件発症以後、墨東病院に入院しているが、四肢運動機能全廃という状態で、現在に至るまで意識は回復せず、今後も回復は困難であり、いわゆる植物状態にある。そのため、同原告は、平成七年六月一二日、身体障害者一級の認定を受けた。

そして、原告Aは、生命維持のために常に人的介護を必要としている。

二  争点1(本件発症の原因)について

1  原告らは、本件発症の原因は、サイレース及びヒルナミンの投与である旨主張する。

2  証拠(甲一、四、乙五、六)及び弁論の全趣旨によれば、サイレースは、ベンゾジアゼピン系化合物に属するフルニトラゼパム製剤で、睡眠作用、麻酔増強作用、鎮痛増強作用をあわせもち、全身麻酔の導入及び局所麻酔時の鎮静に有用性が確認されていること、一アンプル中有効成分フルニトラゼパムを二ミリグラム有すること、その用量は、通常成人に対する全身麻酔の導入としてはフルニトラゼパムを体重一キログラム当たり〇・〇二ないし〇・〇三ミリグラム、局所麻酔時の鎮静としてはフルニトラゼパムを体重一キログラム当たり〇・〇一ないし〇・〇三ミリグラムとすること、サイレースの使用に際しては、麻酔中は気道に注意して呼吸・循環に対する観察を怠らないこととされ、重大な副作用として、〇・一ないし五パーセント未満の頻度で、無呼吸、呼吸抑制、舌根沈下が現れ、その他にも循環器の副作用として同じ割合で血圧低下、徐脈等が現れることが認められる。

また、ヒルナミンについては、証拠(甲二)及び弁論の全趣旨によると、一アンプル中有効成分レボメプロマジンとして二五ミリグラムを有し、精神分裂病、躁病、うつ病における不安、緊張に対して効果があり、通常、成人にはレボメプロマジンとして一回二五ミリグラムを筋肉注射すること、ヒルナミンは中枢神経抑制剤の作用を延長し増強させるため、麻酔剤等の中枢神経抑制剤の強い影響下にある患者に対しては投与してはならないこと、これと併用するならば、相互に作用を増強することがあるので、減量するなど慎重に投与すること、重大な副作用として、血圧の変動等の発現に引き続き高熱が持続し、意識障害、呼吸困難等へ移行したり、その他にも循環器の副作用として血圧低下等がみられることがあるので観察を十分に行い慎重に投与すべきであること、過量投与により傾眠から昏睡までの中枢神経系の抑制、血圧降下等の症状が現れることが認められる。

そして、サイレース投与の具体的影響については、証拠(甲一、八、一二、一五、乙五、六)及び弁論の全趣旨によると、『精神科治療学』(一九九七年二月)中の報告(甲一二)においては、フルニトラゼパムの体内薬物濃度動態は、単回静脈内投与で三相性の変化を示し、各相の半減期はそれぞれ第一相(投与後三〇分ないし四五分)で約八分、第二相(投与後一時間ないし四時間)で二時間、第三相(投与後四時間以降)で二四時間であり、第二相半減期の二時間程度までは副作用発現の危険があると考えられること、薬理作用の持続時間を考える際に参考となる血中濃度についても、『臨床薬理』(一九七八年、九月)中にある論文(甲八)での単回静脈内投与試験の結果においては、二ミリグラムのフルニトラゼパムを静脈内投与した場合、投与後五分の血中濃度の割合を一〇〇とすると、投与後三五分から七五分までの間でも少なくとも四割以上の血中濃度が維持されていること(甲一五)、「Flunitrazepam注射剤の精神科領域における使用経験」(昭和六一年六月)(乙六)の報告においては、フルニトラゼパムを体重一キログラム当たり〇・〇五九ミリグラム注射した場合は血圧降下は四〇分後に最大となり、九〇分後もなお完全に回復していないなどフルニトラゼパムを同一キログラム当たり〇・〇三ミリグラム注射した場合より血圧低下の程度が著明であり、しかも投与後約四〇分で最も副作用発現の危険性が高いことが認められる。

かかる影響を有するサイレースに加え、ヒルナミンを併用投与した場合の具体的影響については、証拠(甲二、一二、一三)及び弁論の全趣旨によると、ヒルナミンそれ自体にも意識障害、呼吸困難、血圧低下等の副作用がみられ、サイレース等麻酔剤との併用によって麻酔剤の作用を延長、増強させることになり、併用するならば減量するなどの配慮が必要になるのみならず、『精神科治療学』(一九九七年二月)(甲一二)及び『精神科救急医療』(一九九八年八月)(甲一三)の報告において、現に精神科救急における鎮静処置の症例において、フルニトラゼパムの呼吸抑制作用がレボメプロマジンの併用によって増強されると推察されること、他剤との併用投与を少なくすると、それに伴って呼吸循環抑制や過鎮静が減少したことが認められる。

3  かかる薬剤を原告Aに投与した状況については、前記一で認定した事実によれば、佐伯医師は、平成七年二月一二日午前四時ころから午前四時四五分ころまでの四五分間に、原告A(体重五四・六キログラム)に対し、まずサイレースを三アンプル、引き続きヒルナミンを計二アンプル、さらにサイレースを二アンプル、すなわち体重一キログラム当たり〇・一八ミリグラムという能書記載の投与量の六倍にも相当するサイレースを注射し、同和人は、サイレース最終投与後の三五分後ないし七五分後の間に呼吸停止等の急変を生じ、蘇生後脳症に陥ったものである。

以上の診療経過に加え、原告Aが投与された多量のサイレースと併用されたヒルナミンは、同原告に対し、呼吸停止等の重大な副作用をもたらす可能性が十分認められるものであったこと、本件全証拠によっても他に呼吸停止等の原因となる事情は見出し難いことなどに照らすと、原告Aは、これらの薬剤の併用投与により呼吸停止等の状態(本件発症)に陥ったものと認めるのが相当である。

4  これに対し、被告は、サイレースは代謝のよい薬物であり、副作用が発現するとすれば投与直後に発現すると理解するのが一般的な知見であることなどから、本件発症の原因はサイレースとヒルナミンの併用投与ではない旨主張し、証拠(乙八、一〇、一一、証人佐伯、同樋口、同米澤)中にもその旨の供述ないし供述記載部分がある。

仮に、佐伯医師及び墨東病院神経科部長(本件発症時は墨東病院神経科責任医長)の米澤医師が証言するとおり、墨東病院ではかつて本件と同程度のサイレースの大量投与、ヒルナミンとの併用投与により本件発症のような例が経験則としてなかったものであるとしても、右3認定のとおり、サイレースの投与量が多い場合は副作用の程度が著明で、投与後二時間程度までは副作用発現の危険性があり、ヒルナミンとの併用投与により副作用が増強されるとの各種研究、実験報告がなされているところ、右報告等の信用性を否定する特段の事情もないのであるから、本件発症の原因はサイレースとヒルナミンの併用投与にあると考えるのが合理的であり、被告の主張は理由がない。なお、右各種研究、実験報告の時期が本件発症以後であったとしても、右結論には何ら影響を与えないことは、言うまでもない。

三  争点2(経過観察義務違反の有無)について

1  原告らは、佐伯医師においては原告Aの診療に際し、サイレース投与後の呼吸抑制等の症状の発現を予測できたにもかかわらず、モニタリング等による経過観察を怠った過失がある旨主張する。

2(一)  まず、佐伯医師においては、精神科救急医療における鎮静処置に際し、サイレースを投与した後の副作用の発現を予見することが可能であったかどうかについて検討すると、前記二2でも言及した、フルニトラゼパムの体内薬物濃度動態は三相性の変化を示し、第二相で二時間であり、フルニトラゼパムを投与して九〇分後もなお血圧低下の状態が完全に回復していない症例があるなどの報告は、原告Aの本件発症以前に刊行物に掲載されていたものであり(甲八、乙六)、そうすると、サイレースの副作用は必ずしも投与直後に発現するとは限らないという知見は、本件発症以前から判明していたものと認められる。のみならず、佐伯医師自身も、証人尋問において、薬理動態は予測がつかないから、投与直後でなくてもサイレースの副作用が発現する可能性は当然あること、サイレースとヒルナミンの併用投与はサイレースの単独投与よりも副作用の発現において危険であることを認識していた旨を自認しているのである。

そうすると、佐伯医師は、サイレース投与後相当時間経過後の副作用の発現及びサイレースとヒルナミンの併用投与による副作用の発現について、予見可能性が存したものというべきである。

(二)  これに対し、被告は、午前四時四五分のサイレース投与後も午前五時二〇分までは原告Aに容態が急変する兆候が認められなかったので、サイレース最終投与後三五分後以降に起こった本件発症につき佐伯医師には予見可能性はなかった旨主張する。

しかし、医薬品の能書の記載事項は、当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者又は輸入販売業者が、投与を受ける患者の安全を確保するために、これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから、医師が医薬品を使用するに当たって右文書に記載された使用上の注意事項に従わない場合には、特段の合理的理由が必要であるというべきところ、原告Aに対する投与状況が右注意事項からみて通常の用法を大きく逸脱していることは明らかである。このような事案において、投与直後から三五分の間に容態が急変する兆候がなかったからといって、三五分後以降に呼吸停止等の異変が起こらないと即断する合理的根拠は認められないのであって、仮に、墨東病院における過去の臨床経験では、サイレースの投与による重大な副作用が生ずるのは投与後三〇分以内が多かったという事情があったとしても、その一事をもって、同医師の予見可能性を否定することはできない。

3  次に、右で認定した予見可能性を前提に、佐伯医師としては、本件発症のような重大な副作用による異変を防ぐために、どのような注意義務を負っていたかについて、検討する。

(一) 前記2に認定、判断のとおり、同医師は、サイレース投与後の副作用の発現について予見することが可能であったうえ、本来は全身麻酔の導入等に使用されるべきサイレースを、精神科救急医療における急速鎮静のためという能書には記載のない用途に使用し、しかも、能書の記載より遥かに大量に使用するのであるから、人の生命及び健康を管理すべき業務にある者として最善の注意を払い、副作用の発現を予見し、これが発現した場合に速やかに対処できる監視態勢をとるべきであったといえる。

(二) そして、証拠(甲一二、一四、乙一〇)によれば、次のとおり、モニタリング等による経過観察の有効性について報告されていることが認められる。

すなわち、『精神科治療学』(一九九七年二月)中の論文(甲一二)において、フルニトラゼパムの静脈内投与を受けた患者は臨床的には呼吸抑制症状が認められなくても、経皮的動脈血酸素飽和度測定器(パルス・オキシメーター)では低酸素状態の存在が検出され、呼吸状態の監視の必要性が強く示唆されるとともに、ベンゾジアゼピン系薬物による急速鎮静は全身麻酔に準ずる医療行為であり、それをリスクの高い精神科救急入院患者にやむを得ず使用する以上は呼吸状態の監視を十分にすべきであること、『精神科救急医療』(一九九八年八月)中の論文(甲一四)において、鎮静処置後には十分な観察が必要であり、呼吸心拍監視装置などを利用してバイタルサインのモニタリングを行うことも方法の一つであること、「精神科治療学」(一九九八年九月)(乙一〇添付文献二)において、鎮静処置の際にやむを得ず大量の投薬を行うときは医師にとって薄氷を踏む思いであり、大きな負担となっているのであるから、従前は経過観察の方法としてモニターの使用すらされていなかったことは医療慣行として行われていたこととはいえ、改善が必要であった旨が報告されている。

(三) しかも、証拠(甲五、一一、証人佐伯、同米澤)によると、墨東病院の神経科には当時からテレメーター方式の心電図モニターが備えられていたこと、心電図モニターは長時間にわたって心電図を監視し、異常が発生したらすぐにアラームで知らせる患者監視装置であること、原告Aに心電図モニターを装着していれば脈拍等の異変を逸早く発見できた蓋然性が高いことが認められ、本件において、実際にも、心電図モニターにより経過観察を行うことが可能で、かつ、その経過観察により本件発症のような事態を防ぐことが可能な状況にあったものと認められる。

(四) したがって、サイレースを投与した後、モニタリング等による経過観察を行うことは極めて有効であるから、佐伯医師は、本件発症のような事態を防ぐため、テレメーター式心電図モニターを装着し、原告Aについて投与後二時間程度は常時かかる経過観察を行う義務を有していたものというべきである。

4(一)  もっとも、被告は、本件発症当時、サイレース投与後、三〇分ないし四〇分の間隔で巡回し経過観察を行うという方法は当時の医療水準からみて合理的であり、モニタリングによる経過観察を行うことは医療水準として確立されていなかった旨主張し、証拠(甲八、一〇、一一、証人佐伯、同樋口、同米澤)中にも同旨の供述ないし供述記載部分がある。

(二)  人の生命及び健康を管理すべき義務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのであるが、具体的な個々の案件において、債務不履行又は不法行為をもって問われる医師の注意義務の基準となるべきものは、一般的には診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である。そして、この臨床医学の実践における医療水準は、全国一律に考えられるべきものではなく、診療に当たった当該医師の専門分野、所属する診療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮して決せられるべきものであるが、医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるものであるから、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではなく、医師が医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできない(最高裁平成八年一月二三日第三小法廷判決参照)。

(三)  なるほど、被告の主張するとおり、本件発症当時は、サイレース投与後三〇分程度までは十分な監視を怠らないという程度の経過観察が精神科においては一般的慣行であったかもしれない。

しかしながら、本件事故以前の平成四年五月発行である千葉県精神科医療センター長の執筆した『精神救急ハンドブック』(甲一〇)の「鎮静マニュアル」においては、患者を鎮静させた後にモニターを装着し、鎮静後九〇分が経過するまでは、一五分間隔でバイタルサインをチェックするものとされており、実際にも、右医療センター(以下「千葉県センター」という。)における平成七年一月から三月までの症例では、九七パーセントの患者に対してモニターによる心肺機能監視等の処置が行われていたこと(乙一〇添付文献二)が認められる。

そして、このようなモニタリングを実施していた千葉県センターは、精神科救急医療の面で先見的、先駆的な病院であることが窺われるものの、前記一1の認定事実によると、墨東病院も、被告が実施する精神科救急患者に対する救急医療事業において重要な地位を占め、都内三ブロックの一翼を担う都下有数の基幹病院であり、墨東病院における医療水準が千葉県センターに比べて低いレベルのもので足りるとは到底いえない。

(四)  以上のような、サイレース投与後の経過観察の方法についての精神救急ハンドブックにおける記述、千葉県センターにおけるモニタリングによる経過観察の実施状況、墨東病院の医療機関としての性格等からすると、墨東病院の医師には、本件発症当時、モニタリングによる経過観察を行う注意義務の存在を認めるのが相当と解されるのであって、仮に、本件発症当時、サイレース投与後三〇分ないし四〇分の間隔で経過観察を行うという方法が精神科救急医療における一般的傾向であったとしても、それは平均的医師が現に行っていた当時の医療慣行であるというにすぎず、これに従った医療行為を行ったというだけでは、精神科救急医療の中心的存在に位置づけられる病院の医師に要求される医療水準に基づいた注意義務を尽くしたものということはできない。

5  したがって、佐伯医師は、原告Aに対するサイレース等の投与後、モニタリングによる経過観察又は、少なくともこれとほぼ同程度の頻回監視による経過観察を行うべきであり、かつ、その経過観察により本件発症のような事態を防ぐことが可能であったのに、これを怠ったものであるから、同医師には注意義務(経過観察義務)違反があったと認められる。

四  争点3(損害)について

1  原告Aの損害

(一) 介護費用 二三〇四万二五二三円

前記一4の認定事実、証拠(甲七)及び弁論の全趣旨によれば、原告Bらは本件発症の日の翌日である平成七年二月一三日から平成九年一一月三〇日(一〇二二日間)まで原告Aの介護を行ったこと、原告Aはいわゆる植物状態にあり常時付き添い介護を必要とすることが認められる。そして、右介護費は一日当たり六〇〇〇円とするのが相当であるから、右期間中は六一三万二〇〇〇円の介護費を要したものと認められる。

また、右のとおり、原告Aは終生にわたり常時介護を必要とする状態で、原告Aは平成九年一二月一日当時三三歳であり、その平均余命は平成九年簡易生命表男子三三歳の該当数値である四五・三二年であり、原告Bらによる介護費用は一日当たり六〇〇〇円とすると、原告Aはそのうち少なくとも一〇年間分の介護費用を請求するものであるから、将来分についてライプニッツ方式により中間利息を控除して算定すると、六〇〇〇円×三六五日×七・七二一七で一六九一万〇五二三円となる。

したがって、介護費用は、合計二三〇四万二五二三円となる。

(二) 入院雑費 四九九万二五四六円

前記一4の認定事実によれば、原告Aは、本件発症から墨東病院に入院しており、入院雑費は一日当たり一三〇〇円とするのが相当である。したがって、平成七年二月一三日から平成九年一一月三〇日までの一〇二二日間分の一三二万八六〇〇円の入院雑費を要し、それ以降の将来の入院雑費については、原告Aは、右(一)と同様に、将来分として一〇年間分を請求するので、ライプニッツ方式により中間利息を控除して算定すると、一三〇〇円×三六五日×七・七二一七で三六六万三九四六円を要し、合計四九九万二五四六円の入院雑費を要したものと認められる。

(三) 通院交通費 一五三万六一六八円

証拠(甲七)及び弁論の全趣旨によれば、原告Bらは本件発症から原告Aの介護を行うために墨東病院に通院しており、そのバスによる往復の通院交通費は四〇〇円であることが認められる。したがって、平成七年二月一三日から平成九年一一月三〇日までの一〇二二日間分の四〇万八八〇〇円の通院交通費を要し、それ以降の将来の通院交通費については、原告Aは、右(一)と同様に、将来分として一〇年間分を請求するので、ライプニッツ方式により中間利息を控除して算定すると、四〇〇円×三六五日×七・七二一七で一一二万七三六八円を要し、合計一五三万六一六八円の通院交通費を要したものと認められる。

(四) 逸失利益 八五八八万五五四一円

前記争いのない事実等、前記一2、3の認定事実及び弁論の全趣旨によれば、原告Aは、本件発症当時三〇歳であり、躁うつ病との診断を受けて抗精神剤を服用し、本件発症日に墨東病院神経科に入院したものであるが、入院前には就職活動にも励んでいたのであり、症状が収まれば退院して、再び就職することは可能であったものと認められる。したがって、原告Aは、三〇歳から六七歳に達するまでの三七年間就労可能であり、本件発症時の平成七年の賃金センサス(男子労働者・学歴計)によれば、年収五一三万九四〇〇円を得ることができたと推認されるので、右金額を基礎とし、労働能力喪失を一〇〇パーセントとしてライプニッツ方式により中間利息を控除して算定すると、逸失利益は、五一三万九四〇〇円×一〇〇パーセント×一六・七一一二で八五八八万五五四一円となる。

(五) 後遺症慰謝料 二〇〇〇万円

原告Aの現在の後遺障害の程度、佐伯医師の注意義務違反の程度等本件に顕れた一切の事情を考慮すると、二〇〇〇万円の後遺症慰謝料が相当と認められる。

(六) 右(一)ないし(五)の損害額の合計は、一億三五四五万六七七八円である。

2  原告B及び同明人の損害

原告Aの後遺障害の程度からして、原告Bは同和人の母として、原告Cは同和人の兄として、原告Aの死亡に比肩するような精神的苦痛を受けたものと認められ、これに対する慰謝料として、原告Bに一〇〇万円、同明人に三〇万円を認めるのが相当である。

3  弁護士費用

原告らが本件訴訟の追行を原告ら代理人に委任したことは、弁論の全趣旨から明らかであり、本件事案の性質、審理経過、損害の程度等の事情を考慮すれば、弁護士費用は、原告A分として一〇〇〇万円、原告B分として二〇万円、原告C分として一〇万円を認めるのが相当である。

4  まとめ

以上によれば、原告Aの損害額は一億四五四五万六七七八円、原告Bの損害額は一二〇万円、原告Cの損害額は四〇万円である。

なお、本件発症が原告Aの薬物耐性に関する体質的素因に起因して生じたことを認めるに足りる証拠はないから、本件において民法七二二条二項を適用又は類推適用するのは相当ではない。

第四結論

よって、原告らの本訴請求は、不法行為による損害賠償として主文第一項記載の限度で理由があるからこれを認容し、その余はいずれも理由がないからこれを棄却し、仮執行免脱宣言の申立てについては、相当でないからこれを却下することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小磯武男 裁判官 太田晃詳 裁判官 大野昭子)

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